高知城は高知市の中心にある典型的な平山城で、初代土佐藩主山内一豊とその妻千代が礎を築いた土佐二十四万石の歴史ある城です。
関ヶ原戦の功績により徳川家康から土佐一国を拝領した山内一豊が,慶長6年(1601年)築城工事を始め整備しました。
城は三層六階の天守閣や追手門などの建物は国の重要文化財となっています。
高知公園のセンダン
周囲5.4m、樹高25m、樹齢約268年。
土佐ではすべての道路に旅人のため、センダンを植えていました。
富田碎花は土佐路の印象を「こごしかる北山越しに来し国の並木の道はせんだんの花」とうたっている。
さわやかな五月の季節に「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ北垣像の後に咲くうす紫の花は、天守閣への登り口にあるので目につきます。
樹冠東へ15m、西へ4m、南へ9m、北へ8m、センダンでは巨木です。
石樋(いしどい)
石樋は、排水が直接石垣に当たらないように石垣の上部から突き出して作られており、その下には水受けの敷石をして地面を保護しています。
本丸や三ノ丸などを含め現在16ヶ所確認されれているが、下になるほど排水量が多くなるため、この石樋が一番大きく造られています。
山内一豊の妻の銅像
千代は幼いころ父を失い、17歳の頃一豊と結婚、貧しい暮らしの中でを守り、戦いに明け暮れる一豊の出世を助けた話が残っております。
中でも、結婚の時持参した10両の金を出して一豊に名馬を買わせ、それが織田信長の目にとまって出世の一口になった話は広く知られれています。
三ノ丸石垣
面積4.641u、出隅部分の石垣の高さは約13m。
石垣に使用されている石材は主にチャートであるが、砂岩、石灰岩も一部使用されており、安土城の石垣で始めたとされる自然石の形を活した野面積みで多くの面が構築されていました。
また、三の丸には、1.815uの壮大な御殿が建築されていました。
詰門
本丸と二ノ丸の間の堀切に設けられた櫓門です。
廊下橋としての役割を担っており、二階部分は、藩主のもとに向かう家老の待合場所であったことから、詰門の名が付けられました。
一階部分は、籠城に備え、塩を備える蔵になっています。
入り口は、東面と西面で食い違いになっており、攻め寄せた敵が容易に突破できない構造になっています。
左は駕籠(かご)で一人用の乗り物で位の高い人に使用された。
そして、右は「三つ柏」と呼ばれている山内家の家紋で、土佐藩船の船印として使われていました。
物見窓
矢狭間塀に設けられた横連子の武者窓のことで、本丸東南の物見(監視)を担う軍学上重要な窓です。
上段の間
外の部屋より床を一段高くした藩主の御座所です。
来客応接の間として武家・大名の屋敷には必ず設けられました。
床、違棚、付書院、帳台構えの座敷飾りが付けられるのが通例だそうです。
展示には工事の様子が見られます。
高知城も模型です。
鯱
鯱は、日本建築の屋根の先端に付けられるもので、中国の伝説上の生き物を表したものです。
高知城の鯱は、上重、中重とも青銅製でそれぞれ、雌雄一対で阿吽の相を表しています。
天守から見る南方向
旧山内家下屋敷長屋、高知市総合運動場、そしてその背後には筆山が見えます。
追手門
重層で入母屋造り、その木割は太く堂々とし、欅を用いた主柱や扉、冠木などには要所に銅製の飾り金具を取り付けています。
その規模が大きく、城門として豪壮優美な趣を備えています。
山内一豊の像
天正元年(1573)豊臣秀吉に従って織田信長のの朝倉・永井攻めに出陣して武功を上げました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの功績により、土佐一国24万石を与えられて翌6年入国、高知城の築城と高知市の基礎を作りました。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と三代の天下取りの間を生き抜いて出世したただ一人の武将です。
所在地
〒780-0850 高知県高知市丸ノ内1-2-1
088-824-5701
交通アクセス
(1)高知駅から徒歩で25分
(2)高知駅から路面電車で10分
見学時間:9:00〜17:00 最終入館時間 16:30、時間延長期間あり
休業日:年末年始 (12月26日〜翌1月1日休)
明神丸 ひろめ市場店
「ひろめ市場」といえば『かつおのたたき』が特に有名です。
目の前で火柱を上げならがかつおの表面をあぶっていく様子を間近で見られます。
所在地
〒780-0841 高知県高知市帯屋町2-3-1
交通アクセス
(1)土佐電鉄大橋通電停より徒歩3分